何年前かにブログに夢中に成っていて、卒業したと思っていたが、
思わず、戻って見た。
戻って見ると、
浦島太郎の様に何が何だかわからない。
それで、ちょっと練習して見たい。
あの時の二人は、
どこにいるのか?
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復帰と言うか、戻ったと言うか、これから続けると言うか、とにかく、負の遺産と言うか、そこに戻って見た。
「子供は二歳までに決まるんだって、人生の骨格が」
「それは、割かし早いじゃないか。俺たち何も用意していなかったね」
「お父さんのそういうところが心配なのよ」
「そうだな。俺は大きいことを言うだけで、全然実行が伴わないから」
「エー、でも毎日実行している。それは間違いない」
「それは、・・・そうだな」
その命はニャンコという名ではなく、和尊という名前がついていた。
「お前達、この名前はなんて呼ぶんだ?」
「お父さん、ワタルです」
「そうか、ワタルと呼ぶのか。ずいぶんと高貴な名前をつけたな。これ以上素晴らしい名前は考えられないだろう。誰だったかな、『和をもって尊しと成す』と言ったのは、聖徳太子ではないか。恐れ多いが、お前達の言う白い波音の子供達であれば、それぐらいの名は必要だし、生涯にそれだけのことはやって欲しいな。それはお前達と子供のもって生まれたものに拠るだろう。そうだ、忘れるといけないから今言っておくが、子供が一歳になったときだったと思うが、餅踏みと言って、大きな一抱えほどある餅をついて、昔は草鞋だったが、今は靴を履かせてもちを踏ませるのだ『ヨイショ』と掛け声を掛けてな」
「あなた、ちょっとそこのミルクとって。この忙しいニャンコちゃんに上げるから」
「おいおい、我が子に対して猫呼ばわりはないだろう」
「良いの、それほど可愛いいということだから」
「でも、子供にどう呼ばせようか?俺たちのこと」
「だったらお父さんで良いのじゃないの。私のお父さんにはかわいそうだけど、爺ちゃんと呼ばなくてはいけなくなるわね」
「エー、お父さんを爺ちゃんと呼ぶのか?」
「何か変な感じね。今日実験して見ようか?」
「俺はまだ良いよ」
泣き声や動作で自分のしてもらいたいことを教えるなんて誰が考えたのかしら。私たち、これで結構会話が出来ている。ミルクとか、歌って欲しいとか、おしめを換えてとか、降ろせとか、いろんな意思表示をしている。これらを組み合わせることで、選択肢を増やしている。
あるときは強くないたり、泣きまねもする。そのうちに笑い方も覚え、親との対話を楽しむようになる。幼児が何を教えているか分からない事がある。そのときは要注意。
それは今までとまったく違ったものを要求しているから。幼児は生まれたときから著しく成長し続けている。彼らの成長が勝っていると、対話がギクシャクして成り立たなくなる。彼らの成長と共に、加速度的に成長しなければ、子供の成長を著しく阻害する。
胎教に良いからと胎児に聞かせる音楽も、子供と対話しながら行われるのでなければ、おなかの子にとっては、たまらなく苦痛であるかもしれない。 良い音楽は、一括りの単なる心地よい音ではなく、彼らは常に比較し、違いを感じながら、心身の血や肉となる栄養素を摂取している。
自分で動くことが出来ないから、ことさら、このような基本的な能力が発達しているのかもしれない。ところが、そんなに神経質に考える事は無くて、ほったらかしでも子供は好きなように成長していく。
そのような土壌にも豊かな感受性を持った種は発芽する。いづれにせよ、発芽した芽を枯らさないように注意深く水遣りを行い、着せすぎないよう温度管理にも気をつけるということかしら。
「いやいや、君にそのような考えがあるとは思わなかった。いや、実に良い。俺も賛同する。しかし、君はそのような大きな事を言う割には準備が足りないのではないか?地球儀は用意しているか?」
「お父さん、それはまだ早いわよ。私たちが今からしっかり教育の事は考えるから、三郎さんを信じてあげなさい」
「お前、やけに彼の肩を持つではないか」
「私、良い旦那さんを見つけたと思っているの。私、ちまちまと人のことあれこれ言うの大嫌いなの。そこには何も生まれない。人の悪口を言いあい、お互い非難しあい生きることに何の意味があるの?と思っていた。私の旦那さん、国家国民じゃ駄目なんだと言い張り、それを打ち破れる人を育成しようとしている。その実験台に自分達がなろうとしている。いいじゃない。やってやろうじゃない、と粋に感じるのよ」
「お前も変わったな」
「そうね。ちょっと大げさだけど、良い女が良い地球を作るんじゃない」